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戦前から戦後へ、築地とともにあった五十八年

大野静江さん(大正6年生・大勝)

場外市場のマンションの三階に住んでいる大野静江さんが、 生まれ育った深川から築地へ嫁いだのは昭和十一年三月、十九歳のときである。 夫の武次さんは、昭和三年に料理道具の「熊手屋」から独立した叔父とともに「大野屋」で働いていた。 「結婚した翌年の五月に、わたしがいまの場所で『大勝庵』というトンカツ屋を出し て、主人は大野屋とトンカツ屋の両方で働いていたんですよ。銀座の『梅林』のま ねというわけでもないけれど、夫が横須賀の『カツレツ庵』で勉強して、そこから コックさんを呼んではじめたわけ。 当時トンカツソースがなくて、うちのコックさんが野菜や香辛料七-八種類を混ぜ 合わせて作ったのね。すると『梅林』のソースよりもおいしいっていわれました」

ヒレカツ五十銭には味噌汁、お新香付きで御飯は食べ放題、 串カツ三十銭には御飯をつけた。 このとき使った皿の一部はまだ残っているという。 トンカツ屋は繁盛したが、子供が生まれて、 人手も足りないということで半年でやめてしまった。

静江さんが知る当時の様子をうかがった。 小田原橋の手前では大八車でやって来た野菜や魚が売られ、 静江さんもほとんどそこで仕入れた。 魚屋は午前中に「魚清」、午後には「魚昇」、 八百屋の「八百清」もやって来たという。 当時、その辺りには料理屋に納める妻物を扱う店はあったが、八百屋は少なく、 築地七丁目の「八百滝」(現在のスーパーみ乃り屋・創業七十六年)、 現在の永楽信用金庫のところに「大八百屋」というのがあったくらいだったので、 大八車で売りにくる八百屋というのはとても便利だったそうだ。 晴海通りに面した三丁目17番には四軒長屋があり、 本願寺南門角から、グリルの「仁科」「魚河岸せんべい」、飲み屋の「はなむら」、 そして新大橋通りに床店を出していた牛飯屋「山之内」の住まいがあった (終戦後、ここに難波輪業が引っ越してくる)。

「景気のいいときは芝居や映画に行ったわね。東劇なんかは芝居の楽日になると、浪 曲、松竹歌劇団もかかったりして、水の江滝子とか小月冴子なんかが出てました。 映画館は、近いところだと銀座松竹や京橋のテアトル、でも浅草のほうによく行ったわね。 いつもタクシーを利用して、五十銭のところを二十銭に値切って乗ったものよ」 料金のメーターがない時代のこと、うらやましくもある。 ちなみに電車には割引電車というのがあって、 朝七時まで乗ると割引で七銭、往復で十銭(片道七銭)だったという。

「東京大空襲のときはすごかったのよ。うちの地下室は危険だというんで、いまの市 場橋公園のところの防空壕に向かったの。ところが市場橋通りにも焼夷弾が落ち て、道路がメラメラと燃えているじゃない。それで市場橋の前の通りを銀座方向へ まっすぐ走っていって、七丁目の資生堂の辺りにあったバーの地下に潜ってひと晩明かしたのよ」 戦時中は夫が徴用で二年ほど石川島に通っていたが、 終戦後には「また、自分たちで商売をはじめよう」ということで、 最初は荒物屋をはじめるつもりで準備した。 しかし、叔父の「大野屋」と同じ荒物屋にすれば、 身内でトラブルになってはいけないということで、食料品を売った。

「とにかく終戦後は食べる物ならなんでも売れたから、いろんなものを売った。 お客さんは河岸の茶屋番、買い出し人が多かったわね」 と静江さんはいう。 共同で魚を売ったあとに、瀬戸物、豆腐、肉も売った。 そして、一個四円のコロッケを売り出したところ、これが大当たりした。 朝六時の開店前から客が並び、一時間ほどで千個は売れたという。 しかし、若い衆といっしょに千個のコロッケを作るのに一晩中かかった。 前日にゆでたじゃがいもを借金して作った電気冷蔵庫に入れておくなど、 仕込みを万全にしてコロッケを揚げるのだ。 材料のじゃがいもやパン粉にするうどん粉はヤミで買った。 うどん粉をパンに焼いてもらい、それをひと晩寝かして二階にいるおばさんに パン粉にしてもらったという。

コロッケのほかにイワシ、サンマなど入手できるかぎりの材料をフライにした。 しかし、当時は経済警察が厳しく、九割近くを没収されたこともある。 そのうち、近所の肉店で揚げたてのものを売るようになったので、 冷たいフライは売れなくなってしまった。 「それで今度はフライを売っていた所を直して、またトンカツ屋をはじめたのよ。 戦前やってた『大勝庵』という名前じゃ、なんだかそば屋みたいなんで、『大勝』 という名前にしたんですよ」 それが昭和三十年のことである。 カツライス百円、エビフライライス百二十円は御飯食べ放題、 そしてカレーライス、ハヤシライスも百円で売った。 その後は順調に商売を続けてきたが、 六十歳になったときに店は娘夫婦に譲ってしまった。

「夫が病気になって二年休み、亡くなってから二年休んだんですよ。四年のブランク のあとにまたはじめたんだけど、娘夫帰が貧乏してたからうちに呼んで手伝わせた のよ。そのうちなんだかこっちも面倒臭くなってそのまま譲っちゃった」 現在は末っ子の美代子さんと暮らしている。 美代子さんは今年の五月から銀座五丁目でスナック「カボシャール」を経営、 最初のころは静江さんも手伝っていたが、 足を痛めてからは大事をとってのんびり過こしている。 しかし、美代子さんが店じまいして帰って来るとやはり心配になり、 「今日はどうだった?」と尋ねる。

「やっぱり、商売というのは苦労があるわよ。忙しいときはおもしろいけれどね。 でも、おかげさまで、わたしが商売していたときは安く売ってたから忙しかった。 運のいいほうでしたね。若いときは寝なくても平気だったしね。つらかったことな んて忘れるわよ」 五人の子供を育てた。 子供たちが学校に通っそいるころ、店が忙しくて父兄参観日にはいけず、 別の日に担任の先生を訪ねて「忙しいから来られないけど、子供たちをよろしく」 と挨拶するのである。 そういうときでも静江さんは割烹着をつけたままだったという。 「人手のあるときはよく遊びにも行ったから、いまは旅行なんてしたいと思わないね。 海外旅行で何十万も使うくらいなら、毎日、近所で遊んでいるほうがいい。 わたしは飲む、遊ぶのが仕事だからね(笑)。お風呂の帰りにひっかかっちゃ、夜の二時、三時まで遊んで帰ってくるのよ」 静江さん自身は商売から離れた生活が長くなったが、 からりとした気っ風のよさは江戸っ子のそれであり、 若いころから商売で培ってきた逞しさに裏打ちされたものだ。 気ままに暮らすいまの生活にも痛快なエピソードがありそうだ。 また、機会があれば静江さんを訪ねてみたいものである。

(平成6年 龍田恵子著)