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丸髷結って帳場に座った築地小町

吉川喜代子さん(明治42年生・吉岡屋)

昭和五年、吉岡屋の先代・吉川亀之助さんは日本橋で漬物業を営んでいた吉川家から 独立し、築地四丁目に店を構えた。 喜代子さんは板橋の農家で生まれた。 野菜を吉川家に納めていた縁で同年、吉岡屋に嫁いだのである。二十一歳だった。

「吉川家とは道ひとつしか離れてなかったけど、 結婚するまで主人の顔は見たこともなかったわね。 それこそ昔は、結婚前に相手に会うなんてことは、 鼻の下が長いという意味から二本棒野郎とよばれて、 そういう人は家庭だってうまくやれっこないなんて言われたものよ」 "二本棒野郎"という聞きなれないユニークな言葉の意味を知り、 こちらは思わず笑ってしまった。

生まれ育った農家とはまったく違う世界に飛び込んだ喜代子さん、 なんとか頑張って商人のおかみさんとして店を切り盛りしていく。 丸髭を結って帳場に座り、"築地小町"と言われていた喜代子さんでもある。

昭和十二年に現在の四丁目13番に移った。 戦時中は板橋工場で作った漬物は店へはまわさず、軍需工場にとどけた。 店の方では確保しておいた漬物を売るのだが、それを求めて大勢の客が行列をつくり、 その騒々しさにおまわりさんが「なにごとか」とやって来たこともあった。 「なんでこんなに品物があるんだって聞かれたから、いくらでもありますって答えた わよ。生野菜は二年も三年もできないときもあるので、用心するにこしたことがな いのよ。農林省と折衡して作ってあるんだから、いくらでもありますって言ったら、 そのおまわりさんびっくりしていたわね。漬物だから保存がきくんですよね」 喜代子さん白身も畑を耕し、野菜や稲を作ったこともあったという。

昭和二十年三月、空襲が激しくなってきたとき、まだ三歳だった次男の隆治郎さん までもが「空襲だ~」とたどたどしく言うのを聞いて、これはいよいよ疎開しなけ ればならないと喜代子さんは思った。 その矢先にちょうど板橋の田舎で結婚式があって出かけ、それを契機にそのままし ばらく疎開することになったという。 「主人は一人で頑張っていましたよ。 どうしているかな、大丈夫かなとずいぶん心配はしましたけどね」

戦後の混乱期、吉岡屋は闇市には行かずに、なんとか持ちこたえてきた。 「主人が老舗としての、見栄とか外聞といったようなことを考えていたのでしょうね。 闇市に行くということを怒っていた人だったから、 わたしたちも闇市には一度も行きませんでしたね。 それでもお客さんが訪ねてきてくれたりして、なんとかやっていけたのでしょうね。 魚屋さんが今日はお魚がないから奈良漬けでも売ってくるかなといって、 うちの商品をずいぶん売ってくれましたよ。 でもどこも品物はなかったわね。一番先になくなったのは長靴だったみたいね」

喜代子さんにとって一番つらかったのは、どんなことだったのだろうか? 「それほど経済的には苦労をしたという思いはなかったけど、 従業員には苦労したわね。 主人が工場の方で、店にいなかったでしょう。 だから、女一人で人を使っていると、いろいろと苦労があったわね。 泣いたこともあったもの。でも、わたしの気性が商売に向いていたのかしらね。 お客さんと話をしていると、なにもかも忘れてしまいました」

店の方を副社長の隆治郎さんにまかせてからは、 海外旅行にもよく出かけた。未知の国を見て歩くのがとても楽しかったという。 喜代子さんは昨年までは店の四階に住み、現在は板橋の長男一家と暮らしている。 しかし、会長ということもあり、いまでもときどき店には出る。 どうせなら昔のように朝の四時には店に出ていたいということで、 前日のうちに板橋から来るのである。 「お馴染みのお客さんが来るでしょ。おしゃべりするのが楽しみなのよ」 うれしそうに笑った喜代子さん、それが元気の源なのである。

(平成6年 龍田恵子著)