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築地市場の仲間たち

菅隆志さん・吹田修一さん・小川三夫さん

場外市場の成り立ちは、日本橋の魚河岸が築地に移ってきた大正12年にさかのぼることは知っていても、当時の様子や現在に至るまでの経緯について詳しくまとめた記録というものは残っていないらしい。私が「築地物語」というタウン誌の記者だったころ、「語りつぐ築地/場外市場とその周辺」(1994年)という短期連載企画で何度か場外市場の人たちに会い、思い出を中心とした話を記事としてまとめたことがあるが、それはほんの一断片だった。 あれから10年以上が経過し、昔のことを知る人が少なくなってきた。そこで当ホームページでは「築地の歩み 歴史地図&昔語り」というコーナーを設け、この1年半で20人近くの人にインタビューを試みた。様々なエピソードを拾うなかで、少しずつではあるが、一人ひとりの人生と深く結びついていたそれぞれの時代の築地の姿が見えてきたのだった。 そして、さらに昔の場外市場のことを振り返り、思い出や見聞きしたことを語ってもらい、記録として残していこうという主旨で座談会を開くことになったのである。

* 「築地の歩み 歴史地図&昔語り」の〈場外市場の歴史地図を作ろう〉には第1期から第4期までの4枚の重ね地図が掲載され、また寺町から市場へと変化していった様子も記載されているので参考にしていただきたい。 関東大震災で崩壊した寺の跡地にも築地に移転した魚市場を追うようなかたちで附属商たちが日本橋からやってきて当初はバラックや露天で店を出し、やがて場外市場が自然形成されていった。日本橋から移ってきた店には、鰹節の秋山商店、料理道具の大野屋商店、山野井商店、鶏肉の鳥上などがあり、いまも営業している老舗が多い。 現在、関東大震災前の時代を経験している人はほとんどいないのだが、先達から伝え聞いた話はとても貴重である。


菅 : 寺町だったころは、本願寺の正門は南向きで参道である門前通りは、いまの場外市場まで続いていました。一帯が末寺です。土塀で囲かこまれ、掘割りもありましたね。うちは代々が寺で、京都から本願寺さんといっしょに築地に出て来たのがはじまり。私の父は、現在のカネシンさんの隣に位置する安養寺の住職でしたが、震災で寺が焼失した後は寺を持たず、僧として頼まれるとお経をあげていました。震災で焼けたお寺さんのほとんどがよそに移っていきましたが、うちは残って、昭和4年ころに現在地に家を建てたんですよ。

吹田 : 震災後、東京市は震災復興図というのを作って、現在の晴海通りの延長に伴う勝鬨橋の架橋も計画に入っていました。わたしのうちは大阪で商売をしていたんですけど、その区画整理のときに祖父が「これからは築地だよ」ということで、昭和2、3年ごろに出て来て、いまの晴海通りに面したお寺の跡地100坪を買いました。

小川 : うちも日本橋の店は壊滅したものの、先々代が再建しました。それがいまも続いている日本橋店です。そして、魚河岸の築地移転に伴って、日本橋の店だけでは手狭になって築地に移ったんです。新大橋通りに面した、元、大野屋さんが倉庫に使っていたところがうちの会社の大株主の鈴木印刷だったので、そこの一角を借りて商売をして、それからいまの場所に移りました。

吹田 : 簡単にいうと、日本橋から移ってきた人、菅さんのうちのように前々からここにいた人、そして、うちみたいによそから移ってきた人たちで出来上がったんですよ。

吹田 : 昭和2、3年ころ、すでに魚河岸は繁盛していました。料理屋さんをはじめ、多くの買出し人たちは、晴海通りの角からうちの横を曲がり、今の築地横町を通り抜け、突き当たって右に曲がり、小川さんの前を通り、起生橋を渡って市場へ。海幸橋を渡って場内に入るのは、忙しい買い出し人にとってはやっかいなものだから、皆、仮設の木橋である起生橋を渡ったわけ。子供たちは、あの橋の上から、よく飛び込んで水泳していたんですよ。やがて橋は第二次世界大戦の戦災でやられました。

菅 : 話に聞いたのですが、震災でこの辺が焼けたとき、みんな浜離宮に逃げたそうですよ。一時的に避難したのでしょう。当時の浜離宮といえば、一般の人が入れなかったのですが、そのとき初めて入ったのがここの人間ということになります。池で洗濯をしたと聞いています。

吹田 : 焼けた本願寺は昭和6年に着工して、昭和9年に落成されました。

菅 : 私はその落成式にお稚児さんで出たのを覚えています。

* 築地本願寺は「門跡さん」と呼ばれて人々に親しまれていたことから、その名残があちこちに見受けられた。現在、晴海通りと旧築地川南支流が交差したところ、小田原派出所の手前に門跡橋が架かっている。この橋は、昭和3年に東京市によって架けられたが、当初は「築南橋」と命名してプレートまでつくっていたが、土地の有力者である佃政の親分が「築南橋とは何事だ、門跡橋に変えろ」と東京市に言ったことから、急きょ、門跡橋になったというエピソードがある(昭和9年に他界した佃政の親分について語る人がいないのは残念)。 また、寺の跡地一帯に住む人たちで「門跡町会」を結成している。後にこれは共和会という名称に変わり、金子茂さん(元京橋信用金庫理事長)が、長年、会長を務めた。その後、行政と話し合いができる組織団体にしようという有志一同の働きかけで、平成5年7月、共和会は築地場外市場商店街振興組合へと移行したのは周知の通りである。

菅 : 震災で寺町がだめになったということから、ここは門跡だから門跡町会にしたと聞いていますよ。市場通りの向こう側を西町会といっていましたね。

吹田 : 戦前の築地はそれなりの勢いがあって繁栄していましたよ。

菅 : 「邪魔だよ、邪魔だよ」という声が飛び交っていて、威勢のいい街だったね。まさに、魚河岸。当時はいまの場外を含めて魚河岸と呼んでいました。場外なんていう呼び方は戦後になってからです。

吹田 : 市場に引き込み線ができたのはしばらく経ってからですよ。短期間だったけれどね。そして、昭和15年に勝鬨橋ができましたね。

菅 : 勝鬨橋ができたのは紀元2600年。そのときは提灯行列が出たり、花電車が走ったりと、大変なにぎわいでした。波除神社の神輿も銀座まで練り歩きました。

* 勝鬨橋が開橋したのは昭和15年6月14日のことである。両方の橋桁が開く可動橋は、1日に5回開き、大きな貨物船が悠々と上がったり、下がったりした。やがて晴海通りの交通量がふえてくるとその回数は減っていき、昭和45年11月を最後に、開かずの橋となったである。 みなさんは旧築地小学校(現在の京橋築地小学校)の同窓生である。同校の始まりは明治34年に開設された朝海小学校だったが、校名の改称、震災による全焼、統合などさまざまな変遷を辿って今日に至っている。

菅 : 私が通っていたころは、1組、2組、3組があって、その3組を分けるのに、ふた組が男子組、ひと組が男女組で、必ず1回は男女組を経験するんですよ。1クラス55人。男女組は、遊戯なんてやらせられるので、いやだったですね。男の子は男の子同士で遊んで。女の子とは遊ばなかった。遊びがちがったからね。

小川 : 子どもがたくさんいたから、よそに行かなくても一つの通りで仲間がいて、遊びには事欠かなかった。そういえば、築地4丁目には駄菓子屋がなかった。小田原町には駄菓子屋があったけど、行けばなんとなくいじめられるような気がして、一人では遊びに行けなかったです。

菅 : 築地川でもよく遊びましたね。親父の時代には水がきれいだった。あさりも獲れたといいます。ボラも群れになってあがってきましたからね。

吹田 : 川端には勝鬨橋を建設するための橋桁が積んであって、そこをくぐったりして遊んだもの。テリー伊藤の親父さんもガキ大将だったなあ。

菅 : そういえば、震災前のここは3丁目だったから、築三クラブという野球クラブをつくっていたんですよ。鮨文のおやじさんも野球が好きでね、魚河岸の野球クラブをつくっていましたよ。

吹田 : 菅さんはベーゴマがとても上手でしたね。技がすごかった。駒がずっと上がっていって、降りてくるときにはハスになって。花形という名前がついていました。

菅 : もどしというテクニックかな。

小川 : 菅さんは何をやっても器用でしたからね。いまの子どもたちと遊び方が全然違いました。

吹田 : いまのうち教わったほうがいい。子どもたち集めてベーゴマのデモンストレーションをやってもらいたいですよ。

◎ 戦時下の場外市場は、生鮮品を始めとする食料品などの統制が強化されて、商売ができるような状態ではなかった。店を売って強制疎開した人も多く、市場としてはほとんど機能していなかった。若者は学業半ばで戦地、あるいは軍需工場に動員された。

菅 : ぼくは18歳で兵隊へ行ったんだけど、築地の子どもたちが手紙を送ってくれたんです。検閲があって、始めのころは手紙の中身を調べられるのだけど、子どもたちからの手紙だっていうのがわかっているもんだから、そのうちお前のは検閲しなくてもいいよなんてと言われてね。

吹田 : ぼくは兵隊さんを送る会をはしごして回って、のり巻きを70個食べたのを覚えていますよ。それから、近所の子どもたちを集めて勉強を教えました。中学受験のときは、親の変わりについていったりしました。

小川 : 空襲では4丁目のここだけは焼けなかった。そばに本願寺、その前に広い道路、あとは回りが川なので類焼を逃れたのかな。噂では、聖路加と本願寺と勝鬨橋は残そうということになっていたようです。歌舞伎座や新橋演舞場、東劇にも爆弾が落っこった。

吹田 : 東劇は素晴らしい建物でした。レニ・リーフェンシュタールの「世紀のオリンピック」というナチの統治下で開催されたベルリンオリンピックの記録映画を東劇で見たのを覚えています。もったいなかったよね。

菅 : 終戦後しばらくは闇市的な商売でしたけど、下地があったからやりやすかった。

吹田 : あくまでも築地は正統な市場であり、終戦後の混乱期といえども、きちっとしたプロとしての商売をしていた。築地にはプライドがありましたからね。一流の料理屋さんたちを相手にしているという下地があったから、まっとうな商売ができたのでしょうね。

◎ この場外市場の人たちに会うたびに、うらやましく思うことがある。それはいくつになっても「○○ちゃん」と呼び合っていることだ。それが親の代からのつきあいがごく自然な形で子どもの代、孫の代へと続いていて、下町の人情と親しみが感じられるのだ。「近所のおじさんに叱られたよ」「○○ちゃんの家でご飯をたべたよ」なんてことも日常的だった。

小川 : ここの人たちは昔からちゃんづけで呼んでいるから、よそから来た人には敷居が高いといわれますよ。

菅 : でも、よそから来た人でも、長年ここで商売しているうちに自然に仲間になって、孫子の代まで親密な付き合いになるんだ。

◎ 話は尽きなかった。ポンと飛び出た言葉を重ねるごとに、話せば話すほどに、遠い昔の記憶が甦り形となっていった。一人ひとりの、一つひとつの思い出は無尽蔵である。

(平成19年 龍田恵子著)