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庖丁とともに築地に生きる

小川三夫さん(昭和8年生・東源正久)

生粋の築地っ子である小川さんは高級御料理庖丁の東源正久の主人である。いつも店内でもくもくとまぐろ庖丁を研いでいる姿が印象的な、いかにも職人気 質、仕事一筋の人である。

東源正久の由来についてふれておきたい。通称「とうげんまさひさ」、実は「あずまみなもとのまさひさ」といい、はじまりは戦国時代から何代も続いた 大阪の刀鍛冶で、明治6年の廃刀令に伴い、刀鍛冶から出刃鍛冶へ転向した。小川さんの先々代が東京に出て出刃鍛冶になるということで、 屋号の源正久に東をつけて東源正久とし、日本橋の魚河岸に出店するとともに神田紺屋町に工場を構えた。先代(小川さんの父)が11歳のときに住み込みの弟子として東源正 久に入り修業を重ねた。 関東大震災で店は壊滅したものの、先々代は店を再建。それが現在も続いている日本橋店である。 昭和6年、魚河岸の築地移転に伴い、日本橋の店だけでは手狭になり、新大橋通りに面した鈴木印刷の一部を借りて築地店をオープンしたのち、現在地(築地4-13-7)に移ったのである。

小川さんは学童疎開の2年間をのぞけば、今日までずっと築地。子どものころは、場外市場はどこも閉店時間が早かったので、 店の前の通りでゴロベースなどをして遊んだ。当時は、各通りに子どもが大勢いて、同じ通りでも文海小学校と築地小学校に通う子どもと分かれていたが、いっしょに遊んでいたという。

「築地4丁目には駄菓子屋さんがなかったので、築地川の向こうの小田原町まで行きました。 でも、一人ではいじめられるから行けない。よせもの屋の息子さ んといっしょならいじめられないというので、ついて行きましたよ。 当時、いっしょに遊んだ人には、向かいの秋山さん(鰹節)や吉岡屋さん(漬物)の息子 さんがいますね」

以前、小川さんを取材させていただいたときに拝見した幼少時代の写真を思い出した。それは3歳のときに波除稲荷神社の前で撮ったハッピ姿の小川さんである。 ねじりはちまき、ハッピには「小若」の文字、足袋をはいて右手に金棒をもった築地っ子はこのときすでに「この築地とともに生きて行くんだよ」という気概が感じられる一枚である。

店内のガラスケースに納められた数々の庖丁。まぐろ庖丁は刀剣と見まがうばかりの、刃渡り60cmから2mの細長いものをはじめ、いろいろなタイプがある。 また、料理庖丁は、すし切り庖丁、葉切り庖丁、牛刀、出刃、柳刃、蛸引き、蕎麦切庖丁、うなぎ庖丁、付け庖丁などあげていくときりがないほど種類 が多い。 庖丁は職人の技と伝統を受け継ぎ、その形は昔もいまもそれほど変化はないが、材質的には大きな変化があった。昔はハガネが主流だったが、 いまは寿司屋さんでも錆びない材質の庖丁を使うようになった。また、生マグロよりも冷凍マグロが多く出回るようになると、庖丁では太刀打ちできないので解体は機械による。 そして一般の家庭でもレベルアップして高級な庖丁をそろえるケースが増えてきているという。

築地で生まれ育って72年という小川さんにとって場外市場の思い出は数々あるが、強く印象に残っていることの一つがゴミ処理問題である。 昭和40年代、共和会の本会計を3000万円も食い込んでいた清掃費を改良してトラックによるゴミ収集のシステムをつくった。

それとタウン誌の発行も忘れがたい思い出である。場外市場の活性化をめざし、紀文、松露など有志が集まり「粋生(いきいき)の会」を結成して小冊子を つくった。 しかし、2年目には活動費がなくなり、残念ながら1冊だけにとどまったという。是非ともそのタウン誌を拝見したかったが、あいにく手元にはないとのこと。 ここはひとつ「幻のタウン誌」を追いかけてみたい。そしてまた、今後、築地場外市場をめぐる小冊子の誕生に期待したいものである。

(平成17年 龍田恵子著)