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どんな時代になっても、『やっぱり、築地だ』といわれるような商売をしていきたい

織田善郎さん(昭和8年生・まるよ)

新大橋通りにある深大寺そばは朝5時から閉店の1時半まで客足は途絶えることがなく、 「毎日、食べても飽きない」と定評があるそばは、日に300~400食が出る。 山形で特別に製造しているオリジナルのそばはコシがあり、麺つゆは濃くなく甘くなく、ほどよい具合でそばの味を引き立てる。 それに揚げたての天ぷらがよくなじみ、おいしい。

織田善郎さんが築地で商売を始めてちょうど50年。築地との出会いは昭和27年ころに遡る。 実家が高田馬場で鳥肉店と食料品店を営んでいた関係で、織田さんは毎朝、築地市場に仕入れにやってきていた。 築地との縁は、奥さんの博子さんとの出会いにもあった。市場通りに和菓子の店があり、そこで博子さんは祖母といっしょに店に出ていたのだ。縁あって、昭和32年に結婚し、そのまま和菓子を売っていたが、 「和菓子だけを売っていたのではこの先、伸びていかない」と考え、まず焼そばを作って売った。 これが好評で、同時におにぎりも売り出した。 「おにぎりは受け売りでしたが、夜中の1時、2時に握ってもらったものが店のほうには5時に届いていました。 だから、おにぎりがあったかい。当時はあったかいおにぎりというのがなかったので、みなさんに喜んでいただきました」 値段のほうは、おにぎり35円、焼そば200円、カレーライス300円、みそ汁10円だった。

その後、主力商品だったおにぎりを作ってくれる人がいなくなったため、織田さんはそばに着目し、 毎日の仕事帰りに博子さんとそばの食べ歩きをしては、おいしいそばを作るために試行錯誤を続けた。 「受け売りというのは利幅も少ないし、追加注文するのでも時間的なロスがありますからね。 焼そばのほかに、自分で手をかけたものを売っていこうと思っていましたから、おにぎり屋さんがやめると言ったときがそばに切り替えるいい機会だったのです」

売れ筋の焼そばはしばらく売っていたが、あくまでそばが主体の商売がスタートした。屋号は「まるよ」だが、店名を深大寺そばとした。 これは当時、明星食品から出ていた深大寺そばという乾麺を使用したことから、そのままのれんにした。昭和41年のことだった。 最初のころは、「丸玉」の隣にあった天ぷら屋さんから天ぷらを買っていたが、それでは深大寺そばの特徴が出せないということで、 与野市にあった自宅で寝る前に天ぷらを揚げて、早朝、それを持って店に出ていた。しかし、時間が経つと天ぷらはどうしてもベタッとなってしまう。 お客さんにカラッとした天ぷらがのったそばを食べてもらいたいということで、狭いスペースを効率よく使えるように改造して、天ぷらを揚げるようになった。 メニューはえび、いか、あじ、きす、かきあげなど10数種類。昭和62年には長男の克也さんが結婚し、家族4人でフル稼働。 織田さん夫婦が作り上げたそばの味とアットホームな雰囲気はいまも変わらず、人々の胃袋を満たしてくれている。

織田さんは築地場外市場商店街振興組合の理事長として6年間を務め上げ、現在も名誉理事長として次世代から信頼を寄せられている人である。 振興組合の創立についてのお話もうかがった。 振興組合の前身は昭和21年に設立された築地共和会といい、故金子為雄さん(京橋信用金庫理事長)が長年にわたって会長を務めていたが、 昭和60年に金子さんから故秋山会長へと引き継がれたときには、親睦団体というよりも振興団体としての意識が高められていた。 ゴミの問題をはじめとする環境整備、商店街活動をめざすのだが、そのためには振興組合設立は必須である。 会員たち、特に若い人たちを中心に地盤固めが行われ、平成4年、3代目会長に織田さんが選任された。 「私の考えは、すべての会員が賛成でなければ、法人化には踏み切らないというものでした。 100パーセントの賛成は無理だとも言われましたが、法人化にしてよかったと会員に満足してもらうためには、いいことばかりも言っていられない。 とにかく会員のみなさんに納得してもらおうと説明会を開きました」 勉強会、近隣の振興組合の調査、見学など活発な取り組みを行い、さらに、会員を個別に訪問して説明。結果、全員の賛同を得て、いよいよ本格的な活動に乗り出していったのである。 平成5年2月に織田さんを発起人代表とする設立委員会事務局が設けられ、3月には振興組合の名称もアンケートをとり、 「築地場外市場商店街振興組合」と決定した。7月30日に創立総会が開催され、ここにおいて共和会の財産は振興組合へ移行することが承認され、織田さんが初代理事長に就任した。 「自分が役員のときは会長のために働き、会長になったときには会員のために働くというのが、私のモットーでした。 多くの組合員を一つにまとめるというのが、理事長の仕事です。そのためには、組合員の一人ひとりとコミュニケーションをとることが大事でしたよ」

振興組合の設立から13年。共同事業の活動が盛んになり、商店街のイメージも高まり、法人化によるメリットはいろいろあったが、 今後の振興組合に寄せる期待とは?「私自身、みなさんにかわいがっていただいたので感謝しています。些細なことが原因で脱退していく組合員もいますが、 やはり、事業部を中心に人と人とのつながりを大切にしていってほしいと思いますね。そして、どんな時代になっても、『やっぱり、築地だ』といわれるような商売をしていきたいですね」 と言う織田さん。それは、10年前に取材したときと全く変わらない、築地への熱い思いなのである。

(平成18年 龍田恵子著)