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家の2階から富士山が見えた頃

鈴木潤之助さん(大正14年生・鳥藤)

鈴木さんは浅草生まれである。実家の鳥藤は明治40年に浅草六区で鶏肉業と鶏卵業を開業、その後、鶏料理屋も営み、全盛期には従業員60人を抱えるほど繁盛した。 関東大震災後、一時、向島で商売したあと、昭和8年に築地の現在地へ移ってきた。

「うちの両隣りは空き地と荒井さんという麩屋さんでした。昭和13年に空き地を道具屋の丸井屋さんと共同で買って、一番上の兄が喫茶店を始めました。 当時、両親と兄は住まいのある向島から朝5時に築地の店へ通っていたので、休み以外の日はほとんど顔を合わせることがなかった。 店と住まいがいっしょになったのが昭和15年、そのうち太平洋戦争が始まったでしょう。鶏は統制品ではなかったけれど、砂糖が統制になって喫茶店は商売ができなくなりました。 わたしも昭和19年に戦争に行っていたので、その間の築地のことは知らなかった。でも、昭和21年に帰ってきたとき、築地には活気が甦っていましたよ。 終戦後、東京都内でも商店街として形が整っていたのは、築地ぐらいだったでしょうね」

その年には築地4丁目の有志一同で波除稲荷神社のお祭りもした。物資不足のご時世だったが、サラシでお揃いの半纏をつくり、ペンキで「祭り」と描いた。 若い衆が円照寺の墓の前に屋台を組んで、顔に墨を塗って踊ったり、歌ったりの陽気な祭りだった。とにかく、戦後一年目というのに勢いがあったのだ。 おそらく、戦後の東京では一番早い祭りだったのではないのだろうか。

鈴木さんが学生のころの昭和20年代の前半にはまだ外濠があり、菊田一夫の連続放送劇「君の名は」ですっかり名物になった数寄屋橋が架けられていたが、 昭和33年、橋は外濠の埋め立てで姿を消した。高速道路の登場で街の風景が変わったのは銀座ばかりではない。築地川の埋め立てによって、隣街の築地も大きく変化していった。

「学生のころは、市場と浜離宮の間にあるお濠で泳ぎましたよ。築地川には市場橋、小田原橋が架かっていて、ハゼなんかが釣れたし、ボートにも乗りました。 あのころは高い建物がなかったので、家の2階から富士山も見えましたね。高級料亭が何軒もあって、いまもある新喜楽の裏には待合もありました」

昭和22年に父が他界したのちは母が鳥藤を受け継ぎ、株式会社を設立した。その母について鈴木さんはこう語る。

「なんでもできた、しっかりした人でね。そろばんが速く、筆も達者、よく働いた。言葉使いや行儀についても子どもころから厳しく躾けられたから、 わたしたちは親に対しても親しげに口をきいたことがなかった。丁寧な言葉を使っていました。そういえば、あのころ、築地の商店では女性たちの奮闘していた姿が印象に残っています」

そこで思い出したのが、以前にタウン誌「築地物語」で「女たちの奮闘記」という企画を立てて女性たちの取材をしたこと。それは苦労話というのではなく、 「無我夢中で働いて、いつのまにか年とっちゃったわよ」と苦労など笑いとばすほどの勢いと元気あふれる話だった。

昭和20年代、30年代は大勢の商売人が築地へやってきて活気にあふれた時代だった。そのころに築地の街のイメージが出来上がったのではないかと鈴木さんは当時を振り返る。

気っ風のよさと人情があればこそ、隣近所のつきあいも深かった。長年、築地で商売をしてきた人たちの絆がとても強いのだなと感じさせられたのが、 昭和30年ごろに鈴木さんをはじめ、築地場外で親交のあった11人(鳥藤、松露、丸井屋、菅商店、秋山商店、小見山商店、杉本商店、有次、佐藤、松井、木村)が集まって 誕生した「へちま会」という親睦会の存在である。みなさん同世代の幼なじみで商売を通じて気心も知れた和気あいあいの会である。 なにかと集まる機会をもうけ、毎月、夫婦同伴で旅行にもでかけた。良き時代の象徴のような「へちま会」は、結成から50年の歳月が流れた。 しかし、近年は亡くなる人のほうが多くなり、4人だけになってしまい「へちま会」は解散した。

「寂しいかぎりですね。もうひとつ、シルバー会というのもあって、こちらのほうにも夫婦で参加してときどき会っていますよ。 あと最近では、大将の会という若い人たちの会とおつきあいさせてもらって、観劇や旅行を楽しんでいるんですよ」

創業以来、鳥藤は全国各地の地鶏、銘柄鶏にこだわって鶏肉、鴨肉一筋に業務用を主体として、時代の変化とともに冷凍食品や輸入品も扱うなど 、一般の消費者に向けた食材も豊富である。一族で守り続けてきた鳥藤は現在、甥にあたる鈴木章夫さんが四代目を継いでいる。今後の築地場外市場への展望をうかがった。

「職種を増やすことと、やはり魚屋さんの数を増やして、魚河岸というブランドを生かしながら、独立した商店街として繁栄させていかなければならないでしょう。 いまの商店街の人たちに頑張ってもらいたいです」

戦後、東京のどこよりも早く活気を取り戻した築地、鈴木さんの次世代に寄せる期待は大きいのである。

(平成17年 龍田恵子著)