築地史料館:築地は海軍発祥の地

築地は海軍発祥の地 1853年(嘉永六年)のペリー浦賀来航を機に、海防の必要に迫られた江戸幕府は鎖国以来の軍艦建造の禁を解くこととなりました。オランダの意見に基づき軍艦咸(かん)臨丸(りんまる)を購入、洋式海軍の創設にふみきります。1856年(安政二年)には長崎に初の海軍学校ともいえる長崎海軍伝習所が開かれ、航海術とともに砲術、機関などの総合技術を教えました。この卒業生には勝海舟(かつかいしゅう)、松本(まつもと)良(りょう)順(じゅん)、幕府天文方の小野友五郎(おのともごろう)らがいます。伝習所は安政六年に閉鎖されますが、これが前身となり築地南小田原町の堀田家中屋敷につくられた講武所内に軍艦教授所が設けられ、伝習所の卒業生が教師をつとめます。講武所が神田小川町に移転したのちは軍艦操練所と改称、学長にあたる教授方(きょうじゅかた)頭取(とうどり)には勝海舟が就任しました。

 こうした経緯から、明治新政府下で現在の築地五丁目にあたる八万坪余の諸藩屋敷跡地に海軍の重要機関が次々に建てられることになります。海軍省は1871年(明治三年)旧浴恩園跡地につくられ、春風(しゅんぷう)池(いけ)、秋風(しゅうふう)池(いけ)の大池は艦船のためのドックにつくり変えられました。敷地内には「賜山(しざん)」という築山がありましたが、ここに海軍大臣旗が掲揚され、通称「旗山(きざん)」と呼ばれます。さらに海軍将校養成のための兵学校、大学校、軍医学校、経理学校などができるなど、築地は海軍発祥の地として名実共に海防の要地となりました。